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hanairo~ハナイロ

湘南 大船 セラピーサロンhanairoのブログです

カツオ、行きま~す

レイナさんとキャンベル明美さんの

満月の宇宙ギフトWリーディングを受けました

直前にひらめきで申し込み

 

ZOOMというシステムを使って

埼玉、神奈川、オーストラリアでの対話にドキドキ

真夏のオーストラリアの明美さんの後ろは

明るくてまぶしい♪

 

開始早々、まだ私の中に燻っている

「やっぱり私は愛されない」

という、拗ねについて話し始めると、

突然、のどが詰まって咳き込む私

レイナさんまで一緒に

 

どうやら外に出たくて仕方ない想いのよう

 

取り出してみると、

なんともいたずらっ子っぽい雰囲気

 

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捕まえても、するっと抜け出してしまう感じに

メタモン」と名付け対話してみると

 

「どうしたいの?」

と聞く私に

「もう、やめてもいいんだけどねー・・・」

といたずらっぽく笑いながら、

またどこかへ隠れてしまう

 

どうにも落ち着きないヤツです

 

「けどねー」って何だよ

 

かまってほしい、遊んでほしい

そんな風に感じます

深刻さはない

「どうせ」で、気を引こうとしてるのかな?

 

とりあえず、メタモンには

「これからも横目で見といてあげるから

 好きに遊んでおいで~」

と言うと、私のおなかのあたりに

「はいはーい」と戻って行きました

 

そして、レイナさんからは、

私の中のいたずらっ子を

「カツオ」と称されるw

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ここ一年かけて

わかってきたことですが、

どうにも私の本質は

小5男子らしい

自覚もある

 

聞かない、考えない

すぐ、調子に乗る

叱られるとシュンとする

それでも懲りない、反省しない

嫌なことからは全力で逃げる!

ああ、もうすべて当てはまる

 

でも、そんな私では

嫌われる、見捨てられる

ちゃんとしなきゃ

 

そう思って

自分のパワーを、

無意味で純粋なパワーを

押さえ込んで来ました

 

出木杉くんに、なろうとした

カツオなのに、、、

 

そして、条件をつけた

 

この空き地では、カツオ全開していいけど

公道に出たら、出木杉になれ、

 

条件付きカツオ

 

だったんだ

 

だから最近ね、

小1になった息子の

絵に描いたようなおバカっぷりが

気に障って仕方なかった

 

そんなことしてたら

大変なことになるよ!

公道出ちゃってるよ!

ってビーコン鳴りっぱなし

 

つまり息子は

もう条件外したら?

ってことを

伝えてくれてたんですよねー

 

苦しいわけだ

 

そして、

レイナさん、明美さんに見守られる中

もうカツオ全開で良いという許可を

自分に出しました

 

世界の中心で叫びましたよ

「カツオ、行きま〜す!」

 

なんという爽快感でしょうか

 

だってどこまで行ってもカツオはカツオ

波平に「バカモン!」と怒られても

サザエに「カツオー!」と耳引っ張られても

反省したフリでかわしながら

宿題放り出して野球に行ってしまう仕様なのです

そんなカツオを愛してくれる中嶋もいるのです

もちろん、波平もサザエもカツオを愛しているでしょう

私もそんなカツオを愛する一人です

 

これからも

公道に出たらまたビーコン鳴るかも知れない

波平のカミナリがフラッシュバックするかも知れない

なぜ、俺はカツオなんだ

と涙する夜があるかも知れない

 

それでも、もう 

 

カツオで行く

来年はカツオ年

 

しいたけさんもそう言ってるし

 

http://voguegirl.jp/feature_issue/shitake2017-h1/contents/01aries/

 

 

 

 

 

 

 

分かる

ここのところ

分かる、とはどういうことか

考えています

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ふと浮かんでくるのは

再々登場、村上春樹さんの

「ねじまき鳥のクロニクル」

の中のこんなセリフ

 

「言わなきゃ分からないということは、

    言っても分からないということ」

 

主人公岡田トオルさんが

唯一信頼している叔父さんの言葉です

 

この叔父さんは、

親戚に一人はいる、

普通ではないオトナ、

型にハマっていないオトナで、

腕一本で、数軒のバー経営を成功させている人です

 

借り物の価値観に縛られず

自分の腕と頭で掴んだ真実をもとに

生きている人

 

主人公を現実と結ぶパイプとなっています

 

叔父さんのこの言葉に

岡田さんは衝撃を受けます

 

言わなきゃ分からない=分かっていない

 

私も初めて読んだ時は

ピンと来ませんでした

 

しかし、時を経て

何度か読み重ねるうちに

こういうことか、

と分かるようになってきました

 

(この体験自体も「分かる」を体感するプロセスでした)

 

 

以前、子育てセミナーに通っていたことがあります。

そこで驚いたのは

講師の先生が、次々と

人のココロの仕組みの真実を

教えてくれるところ

 

いわゆる「正解」をポンと教えてくれるのです

 

今まで、学校や社会では

「正解」は自分で導き出してこそ

価値がある。

掴み取るものだ、と教えられてきたように思います。

「正解」を導き出せるものが勝者なのだ、と。

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しかし、そのセミナーでは

みんなが何十年とかかって

たどりつくような「正解」を

初回でポンと言ってしまう

 

そんなことしていいのー?!

と思いました。

 

でも、何回か通ううちに

冒頭の、ねじまき鳥の言葉を思い出し

納得したのでした。

 

言われて

「へー、そーなんだー」

と思うのは

何も分かってないのと一緒

 

頭で答えを「知った」だけの状態なんですね

(それが悪いわけじゃないです。素直に「そうなんだー」と受け入れ過ごしてみることも大事)

 

しかし

本当に、実感として肚落ちしていることは

「〇〇だよね」

と言われた途端に

 

「そうそう!だよね〜」

 

となるわけです

 

自分が体感したことにしか

その反応は出てこない

 

だから、正解を初回で披露したところで

分からない人には分からない

 

「分かる」ための、

しかるべき出来事に出会うタイミングを

待つのみなのです

 

(そのとき、「答え」という道しるべを知っていることは、多少のショートカットにはなるかも知れません)

 

そして、「分かる」ということについて

もう1つ思い出すのは

ある友人が私にくれた言葉でした

 

私は自分について知ってもらう際に、

幼少期に親と別れたいきさつを

話すことがあります

 

その話をした時の反応は

相手によって様々なのですが

大体は、

「自分には体験がないから分からないけど

    大変だったね、がんばったね」

というものです

 

どんな反応でも

分かろう、としてくれることが

ありがたいのですが、

 

その友人は

自分が一回、

親と離れなければならないかも

という、状況になったときのことを思い出し

(結果、そうならずに済んだそうですが)

 

「あれだけでも辛かったのだから

   本当に離れたら、相当キツかっただろうね」

 

と、自分の体験に寄せて話してくれたのでした。

 

この、

「自分の体験=ものさし」

に寄せて味わう

 

を瞬時にできる人は

理解力が高いなぁ、と思います

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誰も同じ体験なんてしたことないのだから

完璧に相手を理解するのは難しいですが

どんな些細なことでもいいから

共通するような体験・感覚を引っ張り出して

想像してみること

 

そして、その自分なりの「ものさし」を

相手にも見せて

「こんな感じ?」

とすり合わせをすることが

お互いの理解を深めることにも

繋がるなぁ、と思います。

 

実際に私は、

その友人の体験、という

新たな「ものさし」を見せてもらったおかげで

「なるほど、私の経験は

    結構ハードだったのかもなぁ」

と改めて、客観視することができたのでした。

 

 

以上が、私の思う

「分かる」についてでした。

悟りの話でも

サイキックな内容でもなくてごめんなさい^ ^

 

どうしても理屈っぽく

言語化したい欲求が強くて

こんなことを日々考えています

 

そして、まだまだ分からないことだらけ

 

同じように「感じる」についても

思うことがありますが

こちらはなかなか言語化できない

する必要もないのかも

また気が向いたら書きます

 

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4101001413/ref=cm_sw_r_cp_api_Gzhryb4MCBJQW

こどものくせに

子供の反抗期に悩まされています

 

といっても、息子はまだ小学一年生

思春期の本格的な反抗期ではありません

 

小学校に入り、世界が広がり

あれをやりたい

これはやりたくない

俺はこうしたい

が出てきただけなのです

 

でも、いちいち押さえつけたくなる私がいます

 

理屈に合わない反抗をしてくると

ここぞとばかり

理屈でやりこめてしまう

 

どうやら私が反応しているのは

彼の言動の中身ではなく

反抗的な態度そのもののようです

 

先日ある方に言われた言葉が

なるほどなー、と深く心に刺さりました

 

「反抗期ってのは、

    親が反抗してるのよー

    子供はまっすぐ伸びてるだけ

    そこに、大人が逆らってるの」

 

という言葉

 

まさに自分のことだ!

と思いました

 

子供がどんどん意思を前に出すようになるのは

当たり前のこと

 

当然の成長過程なのに

それを認められない私がいる

 

できればこんな不毛な争いはやめたい

でもやめ方がわからない

 

そんなとき、ふと、

あーすじぷしーのブログで見た

リトルミーの瞑想ワーク

を思い出し、試してみました

※やり方を最後にリンク貼っておきます

   音声もあるので、興味のある方はどうぞ

 

早速、小さな私に会いに行ってみると

5歳くらいの私が

部屋で一人ぼっちで立っています

何かを我慢するように

口はぎゅっと結ばれています

 

「何してるの?」

 

と聞くと

 

「待ってるの」

と。

 

「ここで待っていなさい、

    と言われたからずっと待ってるの」

 

と、泣くのを我慢しているような

怒ったような顔で答えます

 

そして彼女が浴びてきた言葉が聞こえました

 

「子供のくせに!」

「生意気な!」

 

そう、何度も何度も私はそう言われて

育ってきました

年長者は絶対的に敬うべしという

大正生まれの祖父母の教育です

良いとも悪いとも思いません

ただ、当時の私は、

「子供のくせに!」

の一言で、自分の思いが一蹴されることが

とても辛かった、悲しかった、怒っていた

 

その怒りは、忘れていても

ずーっと私の奥底に在り続けました

 

そして、その怒りと

息子の反抗へのイライラは

繋がっていました

 

息子が向かってくるたびに

私の心の中には

「子供のくせに!」

が響いていました

 

 

子供のくせに!

子供のくせに!

子供のくせに!

 

 

 

子供のくせに?

 

子供のくせに、ってなんだ?!

 

 子供のくせにって、

 

のびたのくせに、とか

左利きのくせに、くらい

理不尽で無意味な蔑み方だよな〜

 

子供のくせに

反抗したっていいじゃない

 

っていうか

子供だから反抗するのに

子供のくせにって

ずいぶんと見当ちがいな

disり方だわ

 

そう思えると笑えてきて

子供のくせにも何も、

彼も私も一人の人でしかないよなー

と思ったのでした

 

インナーチャイルドワーク的なものは

散々やってきて

過去はもういいよ、

という想いもあったのですが、 

このリトルミィの瞑想ワークは

シンプルだけど、

久々に良い時間になりました

 

あーすじぷしーHP

http://www.earthgypsy-nahomaho.com/home

 

リトルミーの瞑想ワークやり方

http://s.ameblo.jp/naho-earthgypsy/entry-12204576366.html

 

音声バージョン

https://youtu.be/-LbxN7_NyhI

 

f:id:hanaeuchimura:20161130142803j:image

 

良いニュースは小さな声で語られる

ちょっと前

変わりたくて仕方なかった頃

セミナージプシーとともに

色々なブログを読み漁っていました

 

更新を常時チェックしてるものが10くらい

その周辺の人の記事も入れると

日々、結構膨大な量のブログを

読んでいました

 

今思えば、明らかに情報過多

 

頭の中が、他人のコトバで

渋滞を起こしていたと思うのですが

当時は、

もっともっと読みたい

何か取りこぼしがあるのでは?

と焦りにも似た心境で追いかけていました

 

読むことでハイになっているような

自分だけ特別な情報を得たような

優越感もあった

 

もしかしたら、ブログを書く側にも

そういう情報餓鬼を煽るような

書き方が存在するのかも知れない

 

SNSのタイムラインも

似たような状態でした

空き時間の大半は

スマホを握っていた

 

そんな状態が二年くらいあったでしょうか

 

今は、SNSもブログも整理して

大切なお友達と、

そのときに読みたい数人の発信者の方以外は

非表示にしてしまったので

かなりスッキリしています

 

そこに至った理由は

私が

「なりたい自分になれたから」

ではなく

 

「変わる必要がない」

というか

「どこまでいっても私は私にしかなれない」

と気付いたからだと思います

 

それまでの私は

バーン!と変わりたかった

覚醒したかった

変化は劇的に起こると信じていたから

 

でも紆余曲折の中で体感したことは

 

「私は私でしかない」

 

というシンプルかつ

諦めにも似た

淡々とした心境でした

 

そして、それに気づくために

やってくるヒントは

いつも日常の何気ない出来事や

たまたま目にしたコトバや

ふとした会話の中に隠れていました

 

声高に叫ばれているブログのコトバや

ヒットした自己啓発書ほど

HPが高い、というわけではなかった

 

むしろ、声高に叫んでいる人には

叫ばなければならない理由がある

と言うのが、二年のジプシーで

なんとなく得た体感です

 

『良いニュースは小さな声で語られる』

 

ねじまき鳥クロニクル村上春樹著)」

の中の

加納クレタさんの言葉です

この言葉をキッカケに

主人公の岡田トオルさんは

いなくなった奥さんを取り戻すための

光をみつけます

 

自分にとって必要なニュースは

そっとささやくようにやってくる

 

だから、じっと耳をすまさなければならない

自分の内にも外にも

 

そうだったなぁ、と思います

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もう1つ印象深い言葉に

「無名(沢木耕太郎著)」のなかで

沢木さんの父親が語る

 

「なんでもない市井の人の中に、

   本当の巨大な知があるのだ」

 

という畏敬の念のこもった言葉があります

 

真実は、日々を粛々と過ごす中で

当たり前のように存在し

声高に叫ばれることもなく

ただ、当たり前にそこにある

 

何かをなそうとしなくとも

何かになろうとしなくても

大切なことには

ちゃんとたどり着くようにできている

 

耳をすましてさえいれば

 

最近そう強く感じます

 

 

 

 

みんなおなじく

前回の続きです

 

突然ですがカズレーザーが好きです

単純に面白い

しかもサラッとすごい真実を言うところ

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彼の名言はネットにもたくさん転がってますが

私の中で一番の名言は

「人類みなバイ

です

(彼は自分がおバイであることを公言しています)

 

潜水期間、なぜか

バイセクシャルや同性愛について

考える機会に多く巡り会いました

 

頻出の宇多田ヒカルさんの

「ともだち」と言う曲も繰り返し聴きました

 

なぜだろう、と思っていた矢先に

上記の「人類みなバイ」発言に出会い

なるほどー、と納得しました

 

 

私は今まで

この人は男だからこういう風に好き

この人は男だけど◯◯だから友達として好き

この人は女でこんな付き合いだから親友と呼べるかも

この人はこんなことをしてくれるから私にとって◯◯な存在

など

無意識のうちに

「好き」にいちいち理由づけをしたり

カテゴライズをしたりしていました

 

男だから

女だから

年上だから 年下だから

◯◯してくれたから くれないから

 

でもね、

「好き」に理由なんてないよな〜

「好き」は「好き」でしかないよな〜

と思ったのです

 

好きな人とは一緒にいたい

好きな人には触れていたい

 

それをどこまでセクシャルに追求するかは

シュミの問題ですが

 

そして、前回の太陽の話とつながります

 

人が人を求める気持ち、愛する気持ちって

源泉は1つなんじゃないか

 

私にとって祖母は

産みの母ではないけど

やっぱりでっかい太陽だった

 

祖父も太陽だった

 

父もたまにしか会えないけど太陽だった

 

母も覚えてないけどたぶん太陽だった

 

夫も太陽だし

 

子供たちももちろんそう

 

友達も

 

私は私が惹きつけられるすべての人の中に

太陽をみている

 

大嫌いなあいつにさえ

 

そして私もまたみんなにとって太陽であり

あたたかさを

エネルギーを

キザに言えば愛を分かち合っている

 

そしてその愛って

優しくするとか

いつも笑顔でいるとか

何かしてあげるとか

そんな特別なものではなくて

ただそこにあるし

自分からも相手からも

常に溢れ出していて

止めようのないもの

 

空気みたいなもの

 

なんだなー

と思ったのです

 

 

愛ってなに?

私、クレクレばっかで

人に与える愛情は持ち合わせない

欠陥人間なんじゃ?

なんて悩んだ時期もあったし

 

セミナージプシーもしたし

 

いまだによく分からなくなって

七転八倒するけど

 

気付いたら空気のように

自分の内も外も愛に囲まれていました

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これで潜水中に感じたことは

大体書ききったかな

 

色々なことが

色々な時差の中で

一気に繋がっていく

面白い時間でした

 

 

 

太陽

前回の、母に関する投稿を

予想外にも、何人かの方に褒めてもらい

とても嬉しかったです

 

起承転結も、テーマも何も決めず

浮かんでくるまま、

素直に書いた文章だったから

 

率直なぶん、晒すのに勇気がいったけど

受け取ってもらえた喜びも、倍でした

 

まだ湧き上がってくるものを

今日も書きたいと思います

 

相変わらず、

「花束を君に」を繰り返し聴いています

聴くたびに、心が動かされるのですが

いつも一番響くのが

前回も引用した

 

「世界中が雨の日も

   君の笑顔が僕の太陽だったよ」

 

の部分です

 

この歌詞を書けた宇多田さん

本当にすごいな、と思うのです

 

君は僕の太陽、って

昭和的なよくあるフレーズっぽいですが

このシンプルかつ強烈な言葉を

お母さんに向けて発せられるって

ものすごいことだと思うのです

 

とことん、自分の気持ちを見据えて

向き合いきらなければ出てこない

 

もし、それっぽい言葉として

安易に置いただけなら

陳腐すぎて聴けなかったと思います

 

母はすごい

 

太陽

命の源

それだけで、生きていけるもの

 

太陽がなければ

地球が滅びてしまうように

お母さんの存在のすごさって

確かで、否定のしようのないものなんだと思います

 

それは、何ができるから、とか

子供に何をしてやったから、とか

そんな小さなことは一切関係なく

ただ存在するだけで

命を与えている

 

本当にすごい役割を頂いていると改めて思います。

 

 

自分の命を生きているだけで

誰かの太陽になれる

 

噛みしめるたびに

心が震えます

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そしてもう1つ

潜水中に考えていたことがあります

 

それは性別というか

母、女性、男性、性について

 

物理的に子を産んでいなくても

肉体的に女性でなくても

すべての人は誰かの太陽だ

という想いに行き着きました

 

長くなったので次回書きます

 

 

いろいろつながる

忙しく動き回った夏から一転

 

深海魚のように

じっと自分に潜り続けたここ2ヶ月ちょっと

 

インプットもアウトプットもせず

ひたすらギターを弾き、

日々の家事をこなしつつ

最低限の仕事だけして過ごしていました

 

それが苦痛というわけでもなく

必要だし、やるべきこと

としてやっていたような気がします

 

そして、そろそろ再び水面に顔を出す時が来たようです

 

潜水中の私の中で

ずーっと響き続けていたテーマは

「母(なるもの)、原点」

でした

 

生みの親を覚えていない私には、

自分の原点があいまいなような

漠然とした不安が常にありました

 

そして、ここ2ヶ月、ヒントらしきものを

一つ一つ拾い上げ、

答えを出してきたものが

ここにきて1つの線上に繋がった感じです

 

それらは一見バラバラに見えました

 

1つは「母なるもの、大いなるもの」

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これは前のブログにも書きました

 

 

次が「母としての私」について 

 

これは、宇多田ヒカルさんの

「道」と「花束を君に」

という曲を聴いていて湧き上がってきたものです

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宇多田さん本人が言っているように

この二曲はお母さんへの素直な想いを綴った

手紙のような歌詞になっています

 

たとえば

「世界中が雨の日も

    君の笑顔が僕の太陽だったよ」

というフレーズは、宇多田さんにとって

お母さんがどれだけ大切で

大きな存在だったかを端的に表しています

 

人はこんなにまでも

母を求め、愛し、焦がれるものなのか

と胸が苦しくなる気がしました

 

そしてまた宇多田さん自身は

お母さんの存在がここまで巨大だった理由は

「(偉大な歌手だからではなく)

    単純に母親だったからだと思う」

と言っています

 

私には、いわるゆ母親との記憶がないので

子供達が私を求める気持ちが

ありがたくも、少し怖い、というか

理解できない部分がありました。

そんな自分に不安も感じていました。

 

でも、宇多田さんのインタビューを聴くうちに

何か腑に落ちたような感覚がありました

 

そして、私もそんな「母」であることを

誇らしい、ありがたい

と初めて素直に感じることができました

(以前は、自分には不釣り合いな

   大きな期待をかけられているようで

   怖くて仕方ありませんでした)

 

そして3つ目は、育ててくれた祖母への想い

 

これも以前アメブロのほうには

試行錯誤の想いを何度か書いたのですが

そこで出ていた結論らしきものの輪郭を

よりハッキリとなぞることができたような

感覚です

 

キッカケは、心屋の初級セミナーに参加したことです。

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だいぶ前に申し込んだものの

その間に、自分の中で答えらしきものがみつかったり、

当日体調不良になったりで、

もういいかなー、などと思っていたのですが、

日程を振り変えてくださったりと

丁寧な対応にご縁を感じ

参加してみようかな、と思い直したものでした。

 

そこでじっくりと

自分と向き合う中で

 

育ててくれた祖母を

幸せにしたかった

笑顔にしたかった

でもできなかった

私なんている意味がない

 

そんな幼い自分と

再び対面することになりました。

 

健気だなぁ、と泣けてくると同時に、

かなり無茶な課題を自分に課していたなぁ

と冷静に振り返れるようになっていました

 

確かに祖母はいつも辛そうで

不幸そうでしたが

考えてみれば

それも彼女の望み通り

 

彼女の、不幸に浸る権利を奪ってまで

笑顔にしようとするなんて

無茶だし、無理だし、越権行為でした

 

祖母はあれで幸せだったんだなー

と今は心底思います

そして私は

無力な、価値のない存在ではなかった

 

みんなそれぞれに幸せだし

私が大丈夫なように

みんなどんな状況でも大丈夫

 

そんなことが

ここ一年くらいで

ちゃんと腹に落ちていたんだなぁ

と実感する良い機会でした

 

 

そして、これまでなんとなく

よくわからなかった「母」

というものの輪郭が掴めた

そんな手ごたえを感じています

 

母になって7年も経っちゃいましたが 

 

また1つ、抜けていたピースが埋まったような

そんな気分です

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